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支部の紹介



「家族の会」
30年の歩みを振り返って

 1981年(昭和56)年5月に発足した家族の会の30年の歩みを概括してきました。30年の間、家族の会としてきたことは、①認知症問題についての県民への啓発活動、②会員家族との絆としての会報「家族会だより」の発行、③相談活動により把握した介護家族の抱える問題に先駆的に取り組んできたこと、④行政、専門機関と連携しながら家族の会を運営してきたこと、⑤県内各地の地区家族の会を組織基盤として地域に密着した全県的な活動を展開してきたこと、⑥家族の会本部との連携を密にして新たな取り組みを展開してきたことなどをあげることができます
 介護保険制度をはじめ介護、福祉、医療等の制度が整備されてきた中での家族の会活動は、制度・サービスの充実整備を求める取り組みだけではなく、若年期認知症問題の取り組みのような、政策提言に重点を置いた取り組みや、家族の会自らが試行的・開拓的な事業活動に取り組み、そのことが社会貢献や啓発活動につながっていくような展開が求められます。

 また、近年の長引く不況下での介護家族の生活問題、若年期認知症本人・家族にとって大きな問題である経済的な問題、子育てに関わる問題など、介護家族の“暮らしずらさ”や地域での“孤立化”への対応など、生活を多面的にとらえ、行政をはじめ専門機関や地域の人々と連携、協働して<総合的な支援>が求められる状況にきていると思われます。
 このような状況の中で家族の会は、会員家族の抱える問題を受け止め、共に考え、家族同士が支え合える組織であるという、家族会(当事者家族)の原点を大切にし、35年、40年に向けて、次の世話人にバトンタッチしながら歩み続け、会員家族、県民の期待に応えていく所存です。
 
行政との関わりについて
 家族の会は行政との連携を重視し、行政に対して一方的に要望や要求を出していくのではなく、行政との連携を密にし、協議を重ねながら家族の“思い”や“願い”を伝え、制度の創設や改善を求めています。
 しかし、最初は、行政の認知症への理解は十分ではなく、昭和56年の秋ごろのこと、認知症(当時は「痴呆」)の相談窓口として紹介されたのは保健所の精神疾患の相談窓口でした。その保健所の所長を尋ね、認知症の症状や日々の介護の困難性について説明すると、「ここではなく、福祉事務所へ行かれるように」と言われたので、福祉事務所を訪問し同じようなことを話しました。しかし、当時の福祉は寝たきりの人しか頭に無いらしく、「オシメをして歩く?」などと、身体は動くが脳の機能が低下しているという認知症の病態を中々理解して貰えず、結局また保健所へと回されました。こうした中で、行政の認知症についての理解のなさに、逆になんとかしなくてはという勇気が湧きました。
 当時は、認知症の相談窓口はなく、保健所と福祉事務所を“タライ回し”されるような状況であったため、家族の会としては、まず、行政に認知症介護者家族の存在と抱えている問題を理解してもらうことから始めました。その後、行政へ出向き、職員に認知症の様々な問題を話す中で徐々に理解が深まっていきました。当時の高齢福祉課長が家族の会へ来られて、「あなた方の会のことをお手伝いするのが私の仕事」と話され、「つどい」に参加されるところまでになりました。
 また、当時(昭和57年6月~8月)は「短期保護制度」(現在の「ショートステイ」)を希望しても受け入れてくれる理解ある施設はなかったため、高齢福祉課長に相談したところ、市内で2ヶ所の施設が受け入れを申し出られ、3家族が自ら試してみました。その後、介護家族の休養や不意の出来事があった時などの活用を広めるなど、新たなサービスの創設と利用促進に努めました。
 
 昭和56年には、「広島市痴呆性老人対策研究会」を設置され、家族の会の代表を入れて先進地の視察など行政としては画期的な行動がはじまりました。
また、市議会へ介護手当の請願書を提出し、月5万円を目標に運動をはじめました。平成3年には「在宅寝たきり老人介護見舞金制度」が発足し、年間12万円(月1万円)、その後、年間13万円から14万円と支給されましたが、介護保険制度の導入により消滅しました。このほか、広島県、広島市、他市町村でも家族の会の活動を理解してさまざまな政策に反映されてきました。
 このような、家族の会と行政との関係づくりを経て、現在では、行政の施策や計画立案の段階から参画し、下表のような県、市の各委員会へ就任し、家族の会として意見を具申し、家族の声を代弁し、必要な制度やサービスについて提案を行っています。